みかんせい人 たなかともこ ちきゅうを歩く

常にみかんせい(未完成)は常に変われること、あれもこれもオモシロイ。

視えても視えなくても

おっもしろいブログを見つけた。

山野本竜規の続・ナカトリモチ日記

読みながら 霊能者 といわれる人達を

スゴイなーとおもうと同時に

そうじゃなかった自分で良かった、とも思う。

 

 

あ、私のところに龍さんたちがいるとか

そんなのもスゴイ事ではなく

彼らを感じることが特別でもなく

普段は全く聴くこともないのに

あるときは しっかりアタマの中に響くとか

そんなのも みんな気付いてないだけだと思う、ほんとに。

 

 

 

という前提のもと

 

 

在り方を認めるけど

私はなれない、ということ、

その在り方自体 ないでしょ、ということ

スタンスは似てるけど私は絶対しない、ということ

能力的に絶対出来ないけど凄すぎる、ということ

 

 

そんなものが

「見」えない世界周辺にはざらざらある。

 

 

そして それで良いんだと思う。

 

 

私達は楽しみながら学ぶ生徒達であり

時に 同時に他人の先生となる。

 

 

 

「先生」であるから全部人格者、ってわけじゃないし

親しみを感じる人間くささを感じるからこそ

もの凄く心に響くことを言ってくれた、と覚えてることもある

 

 

私のなかには

「脅す」「怖がらす」はあり得ない。

でも それがないと動かないひとが居ることも知っている。

(そこに学びがある双方のひともいる)

私は単に そんなに優しくないから

言葉を優しくする。(同時に心の中で切り捨ててることもある)

 

 

 

違うやり方のヒトを

それが出来て良いな、と思い、

あるいは 同意できないけど 

それでしか対処できないような相手に

私が巡り会ってないんだな、とも思う。

(それはそれで有り難いよね)

 

 

見える世界であっても

見えない世界であっても

視える存在であっても そんなの視えてなくても

私達は オリジナルの台本を抱えて生まれてきている。

エンディングまで きちんと選んで生まれてきている。

 

 

だから 私は大丈夫だ。

あなたも それで大丈夫だ。