みかんせい人 たなかともこ ちきゅうを歩く

常にみかんせい(未完成)は常に変われること、あれもこれもオモシロイ。

否定して始まること?

どうして生まれるかとか

死とはなんぞや みたいな疑問に対して

いろんな言葉や

いろんな宗教や信条があるんだとおもう

 

 

そしてそれぞれに「え?それないでしょ」とか

「それはウソだ!」なんて反応する必要は

実は無いんだと思っている

 

 

理解する というのは

人間であるからできることで

しかもそれぞれの人間に見える真実は

そのひとが認識しうる世界の大きさで決まるから

一部合ってるけど一部違う ってのも

それはそれで良いんだと思う

あなたと それを言ってる人の持ってる世界の大きさが違うというだけで

世界を構成するひとが違う というだけで

 

 

分かりやすく言えば

戦争地域で生まれ育っているひとと

もう50年くらい平和である程度ものに恵まれた場所に育っている人と

先進国といわれる国だけど今夜のパンを毎日心配するところに生きる人とでは

みんな世界の捉え方が違い

自分の可能性についても捉え方が違い

正義が違い 信ずるものも違う ということ

 

 

 

宗教はそういう「世界の違い」を超えて

人のこころがよりどころに出来るもの。

だからその宗教が 世界の真理の終着点 という人もいてOK

 

 

ももっと大きなものを自分の世界としたら

宗教観ですら ちいさな「手段」にすぎず

もっと大きな真理があるって

(で、どの宗教でも その大きな真理 について

触れている部分はあって

多分 表現していることは同じコト・・・なんだと思う)

 

 

 

否定しなきゃ始まらない宗教なんて

ほんとはないのになぁ・・・・

ただ 理解するためのツール でいいのになぁ

なんて漠然とおもう。