みかんせい人 たなかともこ ちきゅうを歩く

常にみかんせい(未完成)は常に変われること、あれもこれもオモシロイ。

Racism(人種差別)2

前記事の続きになります。

tomokotmk.hatenablog.com

 

今回のことは早朝の放映だったのですが

Twitter上であっという間に炎上(はははは)

同テレビ局は4時間後にはTwitterで謝罪しています。

 

 

アメリカっていろんなバックグラウンドのひとがいるし

差別の歴史(奴隷制度やアジア人、最近ではイスラム教の人など)が問題で

ある程度以上の「知識」を持っている人では

とてもセンシティブな話題として受けとられています。

それはいいことなんですが・・・多分。

 

 

どこから「差別」か、というのは

本当に難しい問題です。

似たような難しさを日本の例で考えれば

ちびくろサンボ」問題かな。

 

 

差別かどうか。

個人的には「被差別者(差別される者)がそこに 相手からの嘲笑や見下す感情を見出したとき」が差別になるのだと思っています。

 

 

大事なのは被差別者がそう感じるかどうか、であって

周りから見て差別かどうか、は あくまで「準・基準」みたいなものじゃないかと。

 

 

そして歴史的に触れても「そういう事実があったよね」で終わる場合と

「表現を気をつけたほうがいいよね」という場合もあると思うんですね。

 

 

くるみ割り人形でいえば

クララの家はかなりのお金持ち

召使いも沢山つかっていました。

そこには勝手に階級や立場の違いをつけた歴史があるのに

これはいいんでしょうかね?

この召使いを有色人種で表現するか否か、も一時問題でしたしね。

 

ちびくろサンボだって、もとはイギリスがインドを領地としていた頃

作者が自分の子供のために描いたもの、と言われています。

インドの家族を黒人に書き直したのはアメリカ人と言われていますが

じゃ、インド人を題材にしていたら人種差別じゃないのか。

サンボ、という呼び名は人種差別か。

 

 

 

周りの人を気遣い思いやる気持ちは大事です。

でもだからといって 過剰に「差別だ!」と叫んでいないかなと

時々思います。

それを叫ぶことが 文化的・歴史的にたいせつなことを

なかったこと、にしていないか?と思うことがあります。

 

 

個人的な経験から

「被差別者(差別される者)がそこに 相手からの嘲笑や見下す感情を見出したとき」

それこそが差別とdefine(認識)されるものだと思っています。

世の中のひとが認めているかどうか、よりも。

 

 

だって、日本のバレエ団がくるみ割り人形を踊ったら差別だ!って

言わないじゃないですか。

 

特に芸術表現って 線引きがとても難しいと思うのですよね。

リスペクトをもって表現したつもりでも

「私達の文化をきちんと知らない」と怒られる事ってよくあります。

着物を着崩すモデルさん達を

こっぴどくこき下ろす風潮もありますよね。

 

 

なんにしても一筋縄ではいかない・・・

アメリカの難しい「人種差別」問題でした。