アメリカの明日を本気で考える人達(1)
時々書いてますが、私はJACL(Japanese American Citizens League)っていう
人権擁護団体にはいって活動してるんですね。
ナショナルコンベンションがあってですね
主要メンバーが全体運営に関わっていたのと
「折角だからTomokoにデリゲート(代表)やって貰おう」という
他のボードメンバーの心遣いで
5日間 ほぼフルで参加してました。
いや、参加前の私は 本音を言えば
支部代表なんて 私が任されても・・・っていう気持ちが強かったんだけれど
結果的にすごく勉強になったし大きな気付きにもなって
「代表参加させてくれてありがとう」だったんです。
SLC支部のみなさん、ほんと、ありがとう。
さて。このコンベンションって
ナショナルレベルで全体の意見を統一しなければイケナイ事柄を
各支部から代表者をだして決めていくんだけど
正直ね、形ばかりかな〜と思ってたんです。
まぁ、参加者の6ー7割は法曹界の方だし
歴史的なこともあり(これは後述)全ての手順は 国の議会に準じてます。
そのやりかたの説明もポイントも初日に教えて貰えるんだけれど
(本来 各支部での月イチミーティングでも同じことをするんだが・・・)
それも形式的なのかなぁと 実は思ってました。
討論の1日目はCBL(憲法とその細則)の変更点についての議論。
1日空けて2日目の討論はResolution3点。
(日本語にしづらいのだけれど、問題解決って意味ももちろんあるけど
JACLとしてのこれからの方向性というか、抱負、ってかんじかな。)
それぞれの委員会が 議題として提出されたものを検討し
言葉として、あるいはJACLの基本方針なんかに抵触しないかなんかも
全部チェックしてから コンベンションの1ヵ月くらい前に全員に提示されます。
今年はCBLもResolutionも各3点。
ざっと先に読んだときには大きな問題は感じませんでした。
問題、っていうかね、比較的簡単に自分の支部として(あるいは個人として)
それをサポートするか(For)却下するか(Against)は
結構分かり易いかな、と思ってたんです。
ですが・・・
議論が始まると そんな簡単なことじゃない、ってのは
結構すぐ分かりました。
CBL-1とされていたのは 実は20数年前にも動議されたことで
私自身も6年ほど前に1度 個人的にすごく読み込んだ所です。
市民権を持たない私が支部長に選出され、支部内が危うく分裂しかけたので。
そんな constitution文の一部の削除について。
動議側は「歴史はわかる。それでもこの一文で
だれでも人権活動に関わりたい人を受け入れると言っているJACLが
日系の血を持たない人、かつ市民権を持たない人を拒絶している。
人種差別を否定する団体で この文章をconstitutionにいれているのはどうか」
という、私からすれば至極全うな意見。
でも反対意見は「あの時代、あの厳しい状況下で
この言葉だったから皆がひとつになり奮い立った。
それを削除するのは如何か」ということ。
はい、JACLは90年前の1929年に
激しい日系人排斥に対抗する手段として
市民権を有した二世の弁護士さんたちが立ち上げました。
CBL-1で問題になった一文は この難しい時代に
「アメリカ市民として誇りを持ち、かつアメリカに忠誠を誓う」事に関し
事実と人権を明文化して打ち出したものです。
(中国系移民は1882年に連邦議会において華人排斥法が成立しています。
対日系人よりひどい時代があったということです)
真珠湾攻撃のあたりからはシチズン(アメリカ市民)として保証されるべき
人権を守るのか、あるいは「激しい排斥運動から日系人社会を守る」のかで
意見は真っ二つに割れました。
結局 JACLそのものは米政府に「市民として忠誠があるからこそ従順に従う」を
日系人皆に説いていった、という経緯があります。
歴史(つまり団体の基本理念)を重んずるのか
今の時代に則していかせるのか
日本でも憲法改正の話が出ていますが
シリアスさはまさにそのレベルです。
結果、このCBL-1は却下。
「人種差別を無くそうという人権団体がこんな言葉を掲げていてはいけない」
一見至極真っ当な意見ですが この団体としてはここは譲れるところではない、
そう 多くの支部代表が考えた、ということです。
矛盾しているようですが 実際立ち上がった人達の一番の思いがあることば。
いきなり「ナショナルコンベンションって、実はかなり真剣なんだ・・・」と
認識を改めさせられた議論でした。