みかんせい人 たなかともこ ちきゅうを歩く

常にみかんせい(未完成)は常に変われること、あれもこれもオモシロイ。

受けとりたい「気持ち」の重量を考えた。

狂言ナイト、から萬斎さんのあれこれの記事や動画を

オットと見てましてね。

 

 

その中で「こんな映画もあったのねぇ」というのが

「スキャナー」(2016)

www.scanner-movie.jp

もうDVDになってるんだね。

知らなかった、見てみたい・・・

 

 

でさ。この話。

「ものに宿る思念を読み取る」主人公なんだけどね

・・・あの、すごく変な話

これって思いがけず分かること、って

ありませんか?・・・あるよね?

 

 

つうか、読み取りたくて読んでる訳じゃ無いから

大抵 知らんでもいいことなのにーーーだったりするのが

一番問題なんだけどさ。

 

 

え・・・っと、ないのかな? 笑

 

 

空気、までは滅多にないけどね。

「気」とかって表現されることもあるのかな

私も時々、時々ですが

スゴイ勢いで情報がなだれ込んだ経験が

何度か・・・あります。

 

 

不思議なのは

楽しくて大笑いしてる というのは滅多に拾わない。

というか、そういうのって

空にあがって行ってしまうよね、文字通り。

留まっているもの、って

行き場を失いそうになってる

つよい思いとか。

 

 

もうそういうのは拾いたくないって

それこそ「拾わないと決めた」から

もう最近はあんまり驚くことはなくなったけどね

 

 

 

感情とか気持ちにも「質量」があるのかもしれない。

笑い、喜びとかって風船に入れたヘリウムみたいに

記憶を高く遠くへ飛ばしていくし

悲しさとか行き詰まる感じとか断ち切らねばならない気持ちとかは

どんどん重さを増してものの上に留まる気がする。

ひどいと 染み込むしね。

 

 

 

で、思ったのです。

だれも「重く湿った記憶」なんて拾いたくない。

できれば 軽くてふわふわして

こちらもハッピーになるものを手に入れたい。

私は日系人の歴史を いろんな理由で伝えて行きたいと思ってるけど

 それもさ

本当は「笑い」があったところから

どんなところでも「おかしかった」記憶があるってところから

アプローチした伝え方じゃないと

受けとってもらえないのかもしれないよね。

暗くて悲しくて悔しい思いの方が

その場所に残るんで 記憶にも残るので

つい そっちを伝えがちだけど

ほんとは どんなときも希望を失わなかったとか

どんなときも笑顔があったとか

そういうものからのアプローチこそが

大事なのかもね。

 

 

 

 

・・・・と、思った矢先

検索画面に「この世界の片隅に」という

映画の紹介が出ました。

あーそうそう。こんなかんじ。

笑えることが 日常には沢山ある。

そういう 普通の日常の裏での驚くような変化があるから

その本当の怖さがある。

それを 忘れちゃいけないんだろうなあ。

 

 

 そういう、紹介が出来たらいいんだろうなぁ。